「だ・である体」が書けない

 「センテンスが長過ぎる」

 これは文章構成法の教授に指摘されたことなんですが、自分の論文とかを見返してみると本当にその通りなんですよね。教授に提出した文章や論文ではブログと違って「だ・である体」で書いているのですが、この語り方だと自分と世界の境界が分からなくなってしまって、自分のなかの完全な世界を投影すべく一つの文にくどいほど書き込んでしまうんです。

 

 このブログのように「です・ます体」を使っている限りにおいては、会話と同じように読み手も文のテンポに応じた理解しかしてくれないだろうという諦念から、ある程度簡潔にまとめられていると思うのですが、「だ・である体」には横柄な印象があって、読み手に何度も目を行き来させるような伝え方をしていいように考えてしまいます。

 

 外国語の学術文献の訳書に用いられる文体などは、日本語としてはかなり不自然に長ったらしく曲折したものですが、まさにあんな感じ。あれは理路整然とした外国語の文法構造だからこそ許されるのであって、あれを文献と関わらずに生活する人に読ませていいわけがないでしょう。

 

 僕は今まで謙虚な生徒だったので「だ・である体」を使って意見文を書くなんて恥知らずで恐れ多いと考えていたのですが、それじゃ流石にマズいのでブログもときどき「だ・である体」にチャレンジしようと思います。

 

 授業で「著作権は敵か味方か」というテーマの文章をA4サイズ1枚程度で書く機会があったので早速こちらでも試してみました。クッソ恥ずかしいですが案外すんなり書けたので、今後の学習のためにもここで晒しておきましょう。

 

 

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 著作権は敵か味方か

私は、著作物はそれに払われる敬意に応じた対価が支払われるべきだと考えており、それを保証するものが著作権だというおぼろげな認識を抱いている。その上で著作権が私にとって敵か味方かを論ずる前に、私自身の著作物に対するスタンスを明らかにしておきたい。私自身は著作物に携わる機会が度々あって、それらは主にⅰ)主体的に著作物を生み出すこと、ⅱ)著作物を受け手として消費すること、の二つに分けられる。


ⅰ)について、私の書いているブログや制作した動画があてはまる。これらの目的は私の日常で感じたわだかまりを作品に昇華することで健全な生活の糧にすることであるが、一方であわよくば広告収入と他者の敬意を集めたい思いもあることから、もし私の作品に対する権利が損なわれたのであれば、その場合私は大いに非難することになるだろう。
反面、コンテンツの生成のためには一人の力で成し遂げることは難しく、私のブログや動画は他者の思想や素材のMIXや翻案であったりすることがよくある。今のところ原案者と国が寛容な限りのものを用いているため問題は起きていないが、私の創作活動が原案者と国が態度を変えることで直ちに大きく阻まれることは間違いない。


ⅱ)について代表的な例としては、音楽を聴いたり、楽譜を演奏したり、ネットの記事を閲覧したり、ネットに上げられた動画を観たり、論文作成のために引用することがあてはまる。このうちネットの記事を閲覧すること、論文作成のために引用することに関しては特に問題なく認められるが、音楽を聴いたり、楽譜を演奏したり、ネットに上げられた動画を観ることに関しては間接的に原案者の権利を侵害しているかもしれない。楽譜を演奏することについて、私はネットに上げられたコピーライトをクリアしていないゲリラ採譜された譜面を用いることがあるのだが、特に音楽家が楽譜を販売している場合には、ゲリラ譜面製作者が著作権侵害していることが明らかなために、私的な場で敬意と裏腹に申し訳なさを感じながら用いることはあっても、公的な場でこれを演奏することはない。その場合には、敬意の対価として楽譜を購入するだろう。音楽を聴いたり、ネットの記事を閲覧する場合においては、著作権意識の問題はさらに深刻だ。楽譜を演奏する場合とは異なり、私自身が一方的に著作権侵害しているコンテンツを享受するのみで、それを公的な場で用いることはまずないのだから、私は製作者に対し、もっと他者の著作物に手を出して面白いコンテンツを放出してほしいという気持ちを抱くことすらある。
しかし、ⅱ)のどちらの場合においても本来の著作者に対して全く敬意を払わないわけではない。①著作物の無断転載、引用(複製)のみを行う製作の場合と、②著作物を無断に用いた二次創作(翻案、加工)の場合を考えてみよう。
①の場合、本来の著作物自身が創作性を発揮が認められるか否かによって、著作者に敬意が払われるかどうか分かれるように感じられる。例えばネットで見受けられる凡庸な猫の画像や動画に関しては、製作者に敬意を払うところはなにもない。北極や南極の生物の画像や動画ですら、特別な興味を持たない私たちに発信される頃には著作物として捉えるのは難しい。それらは気付いた頃にはありふれたものになっており、改めて特別敬意を喚起するものにはなり得ない。一方でアニメや映画、芸術品など、代替の利かない創作性が発揮される創作物に関しては、多大な敬意を払うように思われる。この場合著作権侵害した製作者は単なる媒介者としか捉えられない。これらの複製は現在直ちに糾弾されている。
②の場合、実情として、私たちは本来の著作者と、著作権侵害してコンテンツを作る製作者を両方に、創作性に応じたリスペクトを感じている。私が二次創作を受け手として愉しむ場は動画共有サイトなのだが、ここにおいては一次創作物が翻案、加工された二次創作物が一次創作を核としたコミュニティを盛り上げており、一次創作物、二次創作物それぞれの創作性に対する反応がコメントにおいて確認できる。一度は商業的に終了した一次創作物の展開が、二次創作の興隆によって再開することもあり、これらの事実から二次創作は単なる搾取者ではなく、一次創作に対し敬意を払い、商業的成功をもたらしうるものであると考えられる。こうした二次創作の多くは現在、著作者が親告しない限りにおいて黙認という扱いを受けている。


以上の思案を踏まえ、私は二次創作に対して控えめな主張を行う現状の著作権については、著作者を守る味方であると考える(ただ、パロディは認められるべきだと思う)。現在の日本は私を含むインターネットを使う全ての人が著作物を発信しうる環境にあるが、彼らが生み出す多くの単純な二次創作に厳しく口を出すことなく、著作物に対する敬意に対する対価をある程度保証する(①において)現行の著作権は、広い目で見て一次著作物界隈の発展を支えるものとして機能していると思われる。