人間関係におけるコミュニケーションの外部化による価値の創出(大恥)

 久々にサークルのOBとして仲間と集まって活動していたのですが、ひよっこだった初年度のやらかし具合を思い出して、恥ずかしさのあまり何度も呻いてしまいました。ちょっとヤバい感じだったと思います。今でこそ悪くない体で調和できていると思うのですが。

 

 初年度僕が与えていた違和は、当然のこととして感受した人が離れたところで周囲に報告するなりなんなりして解消されたからこそ、彼らも人格を曲げることなく僕と共にいることができていたと考えられますが、僕にとっては今彼らとともに活動するにあたって、昇華しきれていない罪の山がごまんとあるわけです。なんとかヘタをせずに貢献しなきゃ...

 

 報告による認知的不協和の解消についてはネガティブなイメージが持たれがちですが、当事者の外部におけるコミュニケーションは、最終的に不協和の根源がそれを解消するという前提において、ひとまずその人のなかで決着をつける意味で十分肯定されるものとして認めることができると思います。決着をつけてほぼプラマイゼロになった後、人間性の完成という時間軸に開かれた不協和をもたらす人があるべく道を辿ろうと浄罪すればするほどもうけものです。

 

 実際に僕がバックれたファミレスのバイト仲間には、勤務中にどれほどやらかしてしまっても、あるべく道を辿る姿勢は崩さず、リスペクトを欠かすことはなかったので、今でも飲み会に呼ばれては僕が身につけた社会性を彼らに提示することで、道徳的感覚を満たすようなことがあります。(このような自己矛盾的な生き方は熱烈な母の愛によるたまものなので、一般的には認められないでしょうが)

 

 ネットが発達した現在、その手段は2chSNS、オフ会等多岐に渡り、今まで屈折した生き方をせざるを得なかった人はこれらを用いて溜飲を下げることができます。報告行為に前時代的なものに向けるレッテルを張らず、広い視野に立って道徳的な使用を認めてもよいのではないでしょうか。