どれだけ優しくなれるか

 そ松さん7話が待ち遠しいです。というのも、兄弟同士の複雑な人間関係が5話で一つ実を結び、さらなる期待を抱かせた次の6話があまり関係の無いキャラを軸にしたものだったので...特にイヤミの話は六つ子が絡まない原作後期「おそ松くん」のノリだったんでしょうね、毛色が全然違いました。青春群像劇のデュラララ!と勧善懲罰の機関車トーマスくらい違います。

 参考:おそ松くん - Wikipedia

 

 特に今物足りなくて悶えているのは次男推しのカラ松ガールズ達ではないでしょうか。5話で一人輪の外に描かれたカラ松が、6話で特に何事もなかったかのようにしていることに欲求不満を覚えるのでしょう、今創作界隈では一松に並んでツートップの人気です(Pixiv調べ どちら115件 2015/11/13 18時)。確かに5話のカラ松を見ると優しくしてあげたくなります...[追記:先ほどの調べはr-18に限ってのものでした。全体では一松と十四松がツートップです。カラ松はエロ担当、十四松はピュア担当、どっちもいける一松って感じですね]

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 でも僕はひねているので、実際にカラ松みたいな人にちゃんと構ってあげられるのかと考えてしまいます。例えば学科の飲み会で教授や普段あまり会わない人の目があるなか、どうしようもないナルシストにリスクを背負ってまでつきあってあげることなんて本当にできるのか...ましてや男同士なら。娘ならまだしも、な(松造)。

 

 僕が小さい頃は、誰に対しても時間の許す限り優しくしてあげたいと考えておりましたが、20を越えた今は流石に優しさをかける対象を選別するようになりました。自身のキャパの問題もありますが、特に「この人に接していると自身の社会的価値、尊厳が失われる」という思いが優しくしたい気持ちを阻害します。

 一方で、今でも何に対しても優しくしたい気持ちを抱くこともあります。そういうときは大概、他者から自己に向けられる尊厳が、自己の認識を大きく上回ったような感じを受けた後ですね。優しくしたい気持ちというのは自己の承認感覚と深い関係にあるらしい、というのが私の考えです。

 

 この問題を考えるにあたって、自己承認への期待という持続して人格を支える感覚が、特別なことが無い限り安定して程度に応じた快を自身に与えると捉えてみます。すると、これに端を欲する快が供給過多になると優しい気持ちになるのであって、優しくすることによって供給システムを壊すようなことがあってはならず、自己承認の期待を与える優越感を守るために、下位カーストや受け入れがたい存在と関わることの困難が生まれると考えられます。

 

 また、承認を受けている人ほど優しさに振り回されるとも考えられます。もし与えられる快が一方的なものとなれば、それは直ちに適正な期待の感覚に戻るように変動するでしょうから。しかし、尊厳を失う優しさを行使したくはありません。彼らは人格に安定をもたらすために寄付をしたり、関わりを持ちたくない人にスティグマを用いたりと、様々な工夫を凝らすでしょうが、僕の生活圏で見る限りでは、形だけの過去と外来の慣習に埋もれてまだまだ洗練されていない印象を受けます。