罪悪感と嗜好

 朝は一段と冷え込んだので、久々に養命酒を飲んで外出しました。おかげで凍えることもなく、昨日十分に睡眠をとったこともあり、今日はとても快適に過ごすことができました。朝は都立図書館へ出向き、昼はスタバァで文献の整理、午後からは1コマの人文系授業を終えて嗜む程度にギターをピロピロ。こりゃ心身ともに充実した貴族生活ですわぁ...

 

 しかし明日早朝の課題のために早く眠ろうと21時頃に睡眠薬を飲んで床に就いたところ、どうしてただろう、全然眠れる気がしませんでした。身体に異常があるわけでもなし適度に歩行して頭を使い、そこそこに生活を楽しんだはずなのに。僕の思考は後ろ向きなことばかり連想させて、メンタルを暗い方向へ引っ張ります。

 

 この原因はおそらく、自尊心の低い僕が分不相応な厚遇を受けたことによる反応なのでしょう。人は自身の自尊感情を軸にバランスをとるようにして認知的不協和を解消する考えを働かせます。変に称揚されれば恥ずかしく、貶されれば「なに言ってんだコイツは、俺は天才だぞ」と思うように。

 

 僕は度々こうした観点から走悪性や自傷性を発揮します。よくしてくれた人には突き放すようなことを言ったり(これいわゆるボダ気質ですね)身体に悪そうなものをとったり、嬉しいことがあった事実を受け止めきれなくて「僕なんかが生きててすみませんウワアアア」ってなります。

 

 困ったことにこのような傾向は様々な方面で観察されます。バカみたいな量や辛さの食事を取ったりタバコを吸ったり暗い話に傾倒したり、酒を過剰に飲んだり散財したり変に目立つ服やクッソ地味な服を着たり(これは修道士にも言えるかもしれません)と、枚挙に暇がありません。

 こうした行動の応用として考えられるものとしてのエコ商法は、夫に養われている罪悪感から財布が固い主婦に浄罪を与えるものとして成功した、という意見もどっかの記事で見ました。

 

 このような病的な悩みを抱えないためにも、柔軟に自尊心の程度を変えられたらいいんですけどね。少なくとも今の暮らしに適した程度にそれを持つために、実家に帰っては自尊心のネックになっている親族と対話しているのですが、彼ら彼女らは僕が関西に展開する親族一の人格者だということを認めやがらないんです。困った困った